|
|
|
|
<ノベル>
雨が、降っていた。
時折雷光が轟き、黒く無機質な大地を照らす。
そこに、彼女は立っていた。
ざぁざぁと音を立てて降る雨が、髪を、肌を激しく打った。
――私は誰?
そのような問いが、水草から出る泡のように、ぽかり、と内にわきあがる。
自分の名が、頭に響いた。
ならば。
穏やかで、優しい笑顔が脳裏に浮かぶ。
――殺さなければ。
彼女の内で産声をあげたのは、そんな笑顔とは無縁と思える思考だった。
鼓膜を、どうどうという音が叩き続ける。幾筋もの水滴が頬を伝った。
空を見上げると、鈍色の空が、ただ広がっているだけだった。
◇ ◇ ◇
そこは、とても心地良い空間だった。
温かく、穏やかで、まるで何かから守られているかのようだった。
(ここは――?)
ドクン、ドクンと脈打つような音が聞こえる。それはどこか懐かしい音だった。
(水?)
薄暗い中、目を凝らしてみると、周囲が液体のようなもので満たされているということが分かる。けれども、息は苦しくない。
どうしたものかと迷ったが、ただじっとしていても仕方がないので、歩みを進めてみることにした。
しかし、周囲の景色は一向に変わらない。
それでも歩き続けていると、やがて少し先に、小さな影が見えた。
そちらに足を速める。
(わたし?)
そこにあったのは、見慣れた少女の姿だった。華奢な体に、金の輝きを持つ銀の髪。月光に似た青銀の瞳。
だが、その瞳を見た瞬間、はっとする。
(アルト――?)
すると少女はくるりと踵を返すと足を速め、駆け出した。慌てて追いかけるが、どうしても追いつけない。
(待って、お願い! アルト!)
声を必死で張り上げるが、口がぱくぱくと動くだけで、言葉はちっとも出てこなかった。足が重くて思うように動かない。まるで泥の沼の中を進んでいるかのようだった。
やがて、少女の姿は掻き消えた。思わず足を止め、深く息を吐く。そのまましばらくそちらを見ていると、やがて、ぽつんと小さな明かりがともった。それは見る見る大きくなり、輝きを増し、周囲を飲み込んでいく。
そして光は目前に迫り、弾けた。
(――!?)
ルーチェの目に最初に入ってきたのは、薄暗い天井だった。目を瞬かせ、ゆっくりと起き上がると、するり、と何かが肌から滑り落ちる。それは毛布だった。
彼女がいるのは、ベッドの上のようだ。体を動かすと、きしり、と音がする。ふと自分の体を見ると、見慣れない服を着ていた。
周囲をゆっくりと見回してみる。
薄暗い部屋の中には、大きなぬいぐるみや人形、小さなテーブルや椅子などが置いてある。ルーチェはベッドからそっと降りると、淡い光が漏れている窓際へと向かった。
カーテンを静かに開けてみる。激しい雨が降っていた。
狭い庭越しに、街並みが見える。そこで、胸に不安がよぎった。知っている街ではないのは明らかだった。自分はどうしてここにいるのだろうか。
その時、背後でドアをノックする音がした。ルーチェは一瞬躊躇ったが、そっとカーテンを閉め、極力音を立てないようにベッドへと戻った。
しばしの後、ドアが開く音がし、誰かが入ってくる。ルーチェは横を向いて眠ったふりをしながら、顔の前に置いた手の隙間から様子を伺った。中年の恰幅の良い女性がトレイを持ち、近づいてくる。ルーチェは慌てて目をつぶった。小さな音が聞こえた後、気配が遠のいていく。
そっと目を開けると、ベッドサイドにあったテーブルにマグカップが置かれていた。そこからは湯気が立ち上っている。女性は背中を向け、静かに部屋を出て行こうとしていた。
「あの!」
ルーチェは思わず声を上げる。
「あ、起こしてしまったかい? ごめんよ」
女性は振り向くと、申し訳なさそうに謝る。
「いえ……」
「良かった。雨の中、ずぶ濡れで倒れてたから心配したんだよ。それ、ミルクティー。体があったまるから飲むといいよ」
「はい」
ルーチェが戸惑っていると、女性は人の良さそうな笑みを見せる。
「あんたのお洋服は、今洗濯してるからね。とりあえず孫の服を着てもらったけど、サイズが合って良かった」
彼女の言葉からすると、どうやら雨が降る中倒れていたのを助けてもらったらしい。この女性は信頼できる、と直感的に思った。
「あの……ここはどこなんですか?」
「あたしの家だよ。ここは、娘たちが泊りがけで来る時に、孫が使う部屋」
「いえ、そうではなくて……そう、ここはなんという街ですか?」
「銀幕市だよ」
銀幕市。聞いたことがない名前だ。自分の故郷にもそんな場所はないし、思いつく限りの外国の名前にも、該当する場所がない。
考え込むルーチェを見て、女性は怪訝そうな顔をしていたが、程なくして合点がいったかのように頷き、口を開いた。
「もしかしたらあんた、ムービースターさん?」
「『ムービースター』……?」
困惑しているルーチェに、女性は再び頷くと、話し始めた。
◆ ◆ ◆
この街は、奇妙だった。少なくとも、自分の知っている街ではない。
良く分からない建物がたくさんあり、良く分からないものが走っていて、良く分からない服を着た人々が行き交っている。
それが、何ともいえず怖かった。
アルトは、道外れの茂みの中に入り、背の高い木の下にしゃがみこむ。美しく色彩を放つ髪が肌にまとわりつき、雫を垂らす。
これからどうしたら良いのか、分からない。
『いい? アルト。もしどこかではぐれたら、教会で待ち合わせましょう』
頭の中に、懐かしいイメージが浮かぶ。
そうだ、教会だ。――どんな教会だっただろう。
アルトは必死で思い出そうと試みる。
木――確か、大きな木が側に立っていたはずだ。
大丈夫。
アルトはひとり頷くと、雨の中を駆け出した。
◇ ◇ ◇
話を聞き終わり、ルーチェは内容を頭の中で反芻する。ここは自分のいた世界とは違う世界。それは理解できた。しかし、疑問が残る。
「同じ世界からは、一人しか出てこられないのでしょうか?」
「さぁ……あたしは良く分からないけど、聞いた話だと、同じ映画から何人も出てくる場合もあるみたいだよ」
それを聞き、体に衝撃が走る。
(あの子も、この世界にいるんだわ)
先ほどの映像がよみがえる。根拠はないのに、強い確信があった。
この世界は、自分たちの世界ではない。
ならば、もう戦う必要はないのだ。また一緒に暮らし、生きることが出来る。希望が温かさとなって、胸の中心から広がって来た。
「この街に、教会はありますか?」
はぐれたら教会で待ち合わせをしよう。
そういう約束をしたのは、まだ二人が普通の親子だった頃だ。
でも、アルトならばきっと、その約束を思い出すだろうと思った。
「またいつでも遊びにおいで。娘さん、見つかるといいね」
「はい。ありがとうございます」
ミチコと名乗った女性は、玄関まで見送ってくれ、傘も貸してくれた。ルーチェは、礼を言って家を出る。
ピンク色の小さな傘を、大粒の雨が不規則に叩く。
ルーチェには、それがまるで、天からの応援歌のように聞こえた。
◆ ◆ ◆
あれからいくつか教会を見つけたが、そのどれにも大きいといえる程の木はなかった。
もう周囲は暗くなってきている。雨はまだ止まず、風は冷たい。心細くてたまらない。
アルトは、シャッターが閉まっている小さな店の軒先にしゃがみこむ。少なくとも雨が防げることに、少しほっとする。
しばらくボーっと雨を眺めていたら、突然、小さな声がした。
少し驚き、慌ててそちらを見ると、真っ白な子猫がちょこんと座り、こちらを見ていた。アルトは、思わず笑みをこぼす。
「あなたも迷子なの?」
そう尋ねると、子猫はにゃあ、とひと声鳴き、体を震わせて水を飛ばすと、道路へと駆け出した。
「待って」
アルトはつい、子猫を追っていた。何だかひとりぼっちにされるような気がして怖かったのだ。
暗い夜道に浮き上がるように、白い子猫はひょいひょいと走っていく。意外に速い。子猫は真っ直ぐ進み、先にあった角を左に曲がった。アルトも続いて曲がる。
「あれ?」
そこには、子猫の姿はなかった。
代わりに小さな教会があり、その側には、大きな木が生えていた。
その教会の礼拝堂には、穏やかな表情をした聖母子像があった。白い石で出来ている。
それを見たら、何故だかとても腹立たしくなる。
壊してしまおうか。
そんなことを思う自分が、ひどく子供っぽく思えて嫌だった。
何故自分はこんなところにいるのだろう。
意識が目覚めた時、真っ先に、あのひとを殺さなければいけないと思った。
それならば何故、昔の約束を思い出したのだろう。
そもそも、来るかどうかも分からない。
頭の中が混乱していた。心がざわめいていた。もう嫌だった。
早く、終わりにしたかった。
顔を上げ、再び聖母子像を見ると、キャンドルの灯りに照らされた姿が、やけに眩しかった。
どれくらいそうしていただろうか。
背後でドアの開く音がした。
アルトはゆっくりと振り向く。
「アルト!」
懐かしい声。姿は変わっても、奥底に流れる響きは、あの時と同じだった。
やっぱり来てくれた。
安堵と、嬉しさと、悲しみと、絶望と――様々に入り混じった感情が込み上げて来て、泣きそうになる。
けれども、必死で堪えた。
だってもう、お別れなのだから。
アルトは、流れるような仕草で双刀を構えた。『アーリア』と『カリス』、二本の刃がキャンドルの炎を受け、幻想的に煌く。ちりん、と美しい鈴の音が、礼拝堂の中に響いた。
「待って! アルト! わたしたちはもう戦わなくていいの。この街では、一緒に暮らせるのよ!」
「そんなこと信じないわ。あなたは私の敵だもの」
アルトは、ルーチェの言葉を振り払うかのように言い放つ。
そんなこと、あるはずがない。
しかし、迷いが生じていた。もし、本当だとしたら。
でもきっと、もう遅い。自分たちの間には、とても越えられないような溝が出来てしまった。世界の終わりまで続くかのような、深い深い溝。
ルーチェは、あの時も天使のような美しい声で言った。「愛している」と。
でも、何も変わらなかったではないか。
運命は、何も変わらなかった。
「お願いアルト! わたしと一緒に生きて!」
祈るようなルーチェの言葉と同時に、アルトは駆け出していた。
一歩、二歩、三歩――膝を深く曲げ、しなやかに跳ぶ。
ルーチェは動かない。
このまま行けば、二本の刃は同時に、確実に心の臓を貫くはずだった。
だが。
「死ぬのが怖いのね」
ルーチェは、刃が体に届く直前、わずかに身をよじった。
意地の悪い子供のように言うアルトに、ルーチェは荒い息をつきながら視線を向ける。急所は外れたものの、肩口がざっくりと裂け、白いシャツはじわじわと赤く染まっていく。こぼれた血が、すう、と刃を伝った。
「ええ。怖いわ」
ルーチェは真剣な顔で穏やかに、けれどもきっぱりと言った。その言葉に、アルトの心臓がどくり、と跳ねる。
ほらね、と嘲るような気持ちと、いやだ、と目を背ける心が一瞬、せめぎあう。母は優しいが、強いひとだった。弱音を吐く母など見たくない。
「……だって、生きてあなたと一緒に暮らしたいもの」
けれども、ルーチェの言葉は、そんな子供じみた思いを穏やかに包み込んだ。
聞いては駄目だ。せっかく形作った自分が崩れてしまう。破壊神としての自分が。
しかし、ルーチェの思いは静かに、けれども有無を言わせない強さで、アルトの中に侵入してくる。
刀を持つ手が、微かに震えた。
「それに、あなたをもう、ひとりぼっちにするわけにはいかないの」
限界だった。
湧き上がって来た思いは奔流となり、幼い手で積み上げた砂の城を粉々にし、跡形もなく飲み込む。そしてそれは一気に、涙となって体から溢れ出した。
アルトは刀から手を離すと、その場に崩れ落ちるように膝を落とす。そして、子供のように泣いた。嗚咽が、涙が、次から次へと押し寄せてきて止まらない。
そうして泣き崩れるアルトの顔を、優しい小さな手が、そっと包み込む。
温かい手だった。
「泣かないで。大好きな大好きな、わたしの天使」
顔を上げると、霞む視界に、優しい笑顔が映った。
「お母さん……」
そう言ったアルトを、ルーチェはそっと抱き寄せる。
「また『お母さん』って呼んでくれるのね」
ルーチェの声は、微かに震えていた。
アルトは、今度は自分の手で、母の体を抱きしめる。
「だって、あなたはいつだって、私のお母さんだったもの」
そうして二人は、お互いの存在を確かめ合うかのように抱き合う。
窓を叩いていた雨の音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
アルトはルーチェの膝の上に頭を乗せ、赤子のように体を丸めて眠っていた。傍から見れば、それは奇妙な光景に映ったかもしれない。
ルーチェの傷の手当は、もう終わっている。この教会のシスターに事情を話し、もう少し居させて欲しいと頼んだところ、シスターは血まみれのルーチェを見て驚いてはいたものの、快く許可してくれた。それはこの、『銀幕市』という不思議な街だからこそなのかもしれない。
ここが自分たちの約束の場所、再会の場所、そして、始まりの場所だ。
愛しい我が子の頬にそっと手を置き、その温もりを確かめる。
安らぎはひとときの夢かもしれない。でも、せめて夢が醒めるその瞬間まで、親子で暮らしたい。
この世界の神に向けてそう願いながら、ルーチェは娘の髪をなでた。
顔を上げると、ステンドグラスを通った光が色とりどりに輝き、その光の中、聖母子像が穏やかに微笑んでいた。
もう、夜明けだった。
|
クリエイターコメント | こんにちは。鴇家楽士です。 この度はオファーをいただき、ありがとうございました。 お待たせ致しました。ノベルをお届けします。
特に初めて描かせていただくPCさんの場合、雰囲気やイメージをつかむのに迷ったりもするのですが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。 お二人の大切な物語を描かせていただけて嬉しく思います。
それでは、ありがとうございました! |
公開日時 | 2009-02-10(火) 18:40 |
|
|
|
|
|